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本庄水源地とは?呉の水道を支える「東洋一」と呼ばれた海軍のダム

本庄水源地とは?呉の水道を支える「東洋一」と呼ばれた海軍のダムのイメージイラスト

軍港の街だった呉には、艦や砲台のほかに、もう一つ海軍が残した大きなものがある。水道だ。艦隊と工廠と急増する人口は、大量の水を必要とした。その水を確保するために造られたのが本庄水源地である。しかもこの施設、いまも現役で呉の水道を支えながら、国の重要文化財に指定されている。ここでは公開されている情報にそって、この少し変わった文化財の話をしたい。

目次

海軍が水に困っていた

呉に鎮守府が置かれ、工廠が拡大していくにつれて、街は慢性的な水不足に直面した。艦艇に積む水、工場で使う水、働く人々が暮らしに使う水。軍港の機能は、燃料や鋼材だけでなく水の上に成り立っていた。

この用水不足に対処するため、旧海軍が二河川の本流をせき止めて貯水池を造成した。それが本庄水源地だ。完成は1918年、大正7年のことである。

海軍の水道でありながら、その水は軍だけのものにはならなかった。軍用の水が呉の市街へも分けられることになり、軍港の拡張と市民の暮らしが、同じ水源でつながった。呉という街の成り立ち——軍の都合が先にあり、そのインフラの上に市民の生活が乗っていく——を、これほど分かりやすく示す施設は少ない。

「東洋一」と呼ばれた堰堤

本庄水源地の堰堤は、完成当時「東洋一」といわれたほどの規模を誇った。コンクリートの堰堤に美しい石張りをまとった構造で、旧海軍の土木技術の到達点を示すものと評価されている。

そして1999年(平成11年)5月13日、堰堤をはじめとする水道施設が国の重要文化財に指定された。土木の構造物、それも水道施設が重要文化財になる例は多くない。軍港を支えた水のインフラが、百年を経て文化財として認められたわけだ。

いまも現役、ということの重み

この施設が面白いのは、博物館入りした遺産ではないという点だ。本庄水源地は現在も呉市水道の基幹施設として稼働している。大正時代に海軍が造った貯水池の水が、いまも市民の暮らしに届いている。

文化財でありながら現役のライフラインである。この二重性こそが本庄水源地の価値であり、同時に、次に述べる制約の理由にもなっている。

呉の観光は、大和ミュージアムにしても入船山記念館にしても「役目を終えたものを保存して見せる」形が多い。それに対して本庄水源地は、百年前の役目をいまも果たしながら文化財になっているという、別の形の歴史の残り方をしている。この違いを知ってから訪ねると、石張りの堰堤が単なる古い構造物には見えなくなる。

ふだんは入れない場所であること

正直に書いておくと、本庄水源地は通常は非公開だ。稼働中の水道施設なのだから当然である。

そのうえで、例年桜の開花時期——3月下旬から4月上旬ごろ——に、施設の一部が公開されてきた。貯水池のほとりの桜と石張りの堰堤を同時に眺められる、年に一度の機会だ。ただし公開の有無や範囲はその年の事情で変わりうるので、訪問を計画するなら、必ず事前に呉市の発表を確かめる必要がある。「行けば見られる」場所ではないことは、はっきり書いておきたい。

見方を変えれば、これは「一年でいちばん公開の窓が狭い呉の見どころ」である。いつでも行ける場所ではないからこそ、桜の時期に呉へ来る予定がある人にとっては、その旅を特別にする一枚が加わることになる。

どんな人に向くか

艦艇や博物館だけでなく、街を支えた仕組みの側から呉を見たい人。土木遺産や近代化遺産に心が動く人。桜の季節に呉を訪れる予定があり、ほかでは見られない花見の場所を探している人。そういう人にとって、ここは呉観光の隠れた本命になりうる。

まとめ

本庄水源地は、旧海軍が用水不足を解決するために築き、1918年に完成した貯水池である。「東洋一」と呼ばれた堰堤は国の重要文化財でありながら、いまも呉の水道を支える現役の施設だ。ふだんは非公開で、桜の時期の限られた公開が唯一の窓になる。軍港の街の歴史を、水という足元から見直させてくれる場所である。

(記述は公開資料にもとづいている。施設公開の実施の有無・期間・範囲は年ごとに変わるため、訪れる際は呉市が発表する公式の情報を必ず事前に確認してほしい。)

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