呉を歩いた人がよく口にするのが「坂が多い」という感想だ。駅前の平らなところから少し内側に入るだけで、道はぐいぐい上り始め、住宅が斜面にびっしり張りついている光景が現れる。なぜこうなったのか。この記事では、公開されている情報をもとに、呉が坂の街になった理由をたどってみる。
そもそも平らな土地が少ない
まず地形の話から。呉の市街地は、北・東・西の三方を山に囲まれ、南は瀬戸内海に面している。つまり、海と山にはさまれた細い帯のような場所に街がある。
まわりの山は低くない。市街地の北にそびえる灰ヶ峰は標高737mあり、東側の休山も497mある。海のすぐ近くまで山が迫っているため、もともと平らに使える土地がごくわずかしかなかった。
この地形は、街をつくるうえでは不利に見える。ところが呉の歴史では、これがまったく逆に働いた。
「守りやすい港」だったことが運命を決めた
三方を山に囲まれ、目の前は穏やかな瀬戸内海で、湾の入口も狭い。これは軍港を置く条件としては、きわめて優秀だった。
外から中が見えにくく、攻めにくい。波が穏やかで船を停めやすい。そこで1889年(明治22年)、呉に鎮守府が開庁する。海軍の地方拠点が置かれたのだ。さらに1903年(明治36年)には呉海軍工廠が発足し、呉は船を「停める」だけでなく「造る」街になっていく。
戦艦大和が呉で建造されたのも、この流れの延長線上にある。地形の不利がそのまま軍港としての有利になり、街の運命を決めてしまった。
人が一気に増えた。しかし土地は増えない
軍港と工廠ができると、そこで働く人が必要になる。造船、製鋼、機械加工、そして海軍関係者とその家族。人口は短期間で爆発的に増えた。戦時中には40万人規模に達したとも言われ、当時としては全国でも有数の大都市だった。
ここで問題が起きる。人は増えるが、平らな土地は増えないのだ。
海沿いのわずかな平地は、工廠と港湾施設と軍の用地が押さえている。街の中心機能もそこに集まる。では、働く人たちはどこに住むのか——答えは、山の斜面しかなかった。
こうして住宅は、平地から押し出されるようにして斜面を上っていった。等高線に沿って細い道が刻まれ、その道沿いに家が並び、家と家のあいだを階段がつなぐ。呉の坂の風景は、こうしてできあがったものだ。
坂の街には、坂の街の暮らし方がある
斜面に街があるということは、日々の生活にそのまま影響する。買い物に行くのも、駅へ向かうのも、上り下りがついてまわる。車が入れない道も少なくなく、家の前まで車をつけられない区画もある。
一方で、坂の街ならではの良さもある。少し上がるだけで視界が開け、家々の屋根越しに海と造船所のクレーンが見える。灰ヶ峰の展望台から見下ろす呉の夜景が知られているが、あの光の一粒一粒は、斜面に建った家々の明かりでもある。街の形がそのまま夜景の形になっている、と言い換えてもいい。
観光で歩くときも、この地形は覚えておいて損がない。地図の上では近く見えても、あいだに斜面があると体感の距離はかなり変わる。歩きやすい靴で行くこと、そして「上る前提」で時間を多めに見ておくことをおすすめしたい。
海側を歩けば、また違う顔が見える
坂の話をしてきたが、呉のもうひとつの顔は海側の平地にある。呉駅から海に向かうエリアは平坦で、大和ミュージアム、てつのくじら館、商店街などがこの一帯に集まっている。
つまり呉は、「海沿いの平らな観光エリア」と「その背後に立ち上がる斜面の生活エリア」という二層構造になっている。観光で訪れる人の多くは前者しか歩かないが、少しだけ坂を上ってから振り返ってみると、この街の成り立ちが視覚的に理解できる。港があり、その働き手が斜面に住んだ——その関係が、一望のもとに見て取れるからだ。
まとめ
呉が坂の街なのは、海と山にはさまれて平地が乏しかったところへ、軍港と工廠によって人口が急激に集まったからである。地形が軍港に適していたからこそ人が集まり、その地形ゆえに住む場所が斜面しか残らなかった。坂は不便の象徴のようでいて、この街がどう成り立ったのかを今も語り続けている地形でもある。呉を訪れたら、平らな観光エリアだけでなく、少しだけ坂を上ってみてほしい。
(本記事は一般に公開されている情報をもとに構成しています。人口・地理に関する数値は出典によって幅がある場合があります。施設の営業状況などは変わることがあるため、おでかけの前に各公式情報をご確認ください。)
コメント